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【イベント記録】「廃校後の地域の未来」

  • 執筆者の写真: 奥出雲あすなろ教育の会
    奥出雲あすなろ教育の会
  • 2019年10月11日
  • 読了時間: 16分

2019年9月3日 第4回奥出雲の教育を考える会を、「廃校後の地域の未来」をテーマに開催しました。


話題提供者に、飯南町谷地区 澤田定成さん、美郷町地域おこし協力隊コーディネーター吉田敦さん、さらに意見交換のファシリテーターとして、飯南町赤名公民館 景山良一さんをお迎えしました。


お二人の素晴らしい講話の内容をたくさんの人に知ってほしい!

以下、講演録を掲載しますので、ぜひご一読ください。

① 飯南町谷地区の状況と取組みについて 澤田定成氏

飯南町の澤田と申します。

私は谷地区の生まれでして、現在67歳になります。

谷自治振興会の会長を経て、現在は飯南町の集落支援員として谷地区で活動しております。

今日は小学校の取り組みなどを通して谷地区の様子をお話させて頂きます。


地域の状況について少しご紹介いたします。

8月1日現在で人口4,892人、世帯数2,047世帯となっております。

谷地区は飯南町の西南の端に位置しています。

塩谷、井戸谷、畑田という3つの集落から成っています。

古く江戸時代には石見銀山の直轄領でした。その後、浜田県になり、邑智郡になりました。石見地方の地域でした。昭和28年の合併で飯石郡赤名町になり、その後、赤来町に、さらに平成17年に頓原町と合併して飯南町になりました。


谷地区の人口は、ピークと思われる昭和30年頃に戸数203、人口944人でしたが、急激に減少を続けまして、現在は約80戸、200人となっています。

高齢化率は47.8%と高いですが、50代以下が各年代ごとそれぞれ10人から20人くらいいまして、高齢化が進んだ地域としては若い世代が多い、珍しい地区になっています。


古くは昭和30年代後半から過疎が始まりまして、これに対応するため、過疎対策委員会が自主的に組織されました。これが谷自治振興会の始まりです。昭和56年に谷振興会になり、合併前の平成16年に谷自治振興会となりました。

谷自治振興会の組織は、会長以下、事務局、総務振興部、事業部という3つの部局があります。また、輸送活動運営会議、谷笑楽校運営会議、谷地区除雪連絡会議という会議で運営等について協議をしています。谷地区内には公民館をはじめ趣味の会など各種団体が多数ありまして、活動はそれぞれ独立して自主的に行っています。その中で自治振興会を中心に互いに連携を図りながら相互に協力が出来るように情報の共有等も行って事業にも積極的に参加を頂いています。


旧谷小学校について話をさせて頂きます。明治8年開校で、現在の校舎は昭和3年に新築されたもので、築92年と、県下で最も古い校舎の一つと言われています。こちらの写真は竣工式の時のもので、2階建ての、当時としては大きい建物だったと書かれています。開校後129年間、1,538名の卒業生を輩出しまして、平成17年3月、赤名小学校と統合して閉校となりました。町内ではこの合併を機に2校が閉校となりました。現在は赤名小学校78名、来島小学校51名、頓原小学校61名、志々小学校17名の4校となっています。他には中学校が赤来・頓原それぞれにあり、各約50名の生徒が通っています。財政難、児童数の減少を理由に、合併を契機として閉校されたのでありまして、全国的にはこの時代に多数の統廃合が行われたように聞いています。


廃校、それは子どもたちの教育的側面からの悪影響はもちろん、その地域に学校がないという事は子育て世代の存在や新たな転入の可能性を減少させることで、その地域の少子高齢化を一層加速させ、地域の急激な衰退が懸念されることです。なんとか地域の衰退だけは避けたいという思いから、あらためて地域との関わりを継続してもらえるよう、全卒業生・在校生・教職員から構成される同窓会「卒業生会」を設立しました。現在では隔年で総会を開催しまして、地区内外から参加を頂いています。総会は、旧交を温める機会とし、谷地区の情報を発信し、ご協力を頂くチャンスとなっています。ハード面では、平成15年から閉校に向けての話が本格的に進む中、校舎活用について町・地元で検討委員会が設立されました。平成16年5月には、一部には建物保存・活用という意見もありましたが、建物を壊して地域の拠点施設を建設してほしいという要望にまとまり、廃校の条件として提出し閉校をむかえました、その後も継続して役場や地元整備委員会との協議が行われましたが、財政面や裏付けとなる助成制度の変更などがあり、しだいに改修をして保存活用しようというようなことに傾きだし、同様の施設の視察や集落点検・診断を行い、10年後に向けた地域の活性プランを作成し、該当する補助事業がでるのを待っていました。平成21年度に国交省の助成事業がありそれに採択頂き年度内の改修にこぎつける事が出来ました。改修を終えて翌22年4月、神楽や伝統的な技などを資源とした交流拠点施設、谷笑楽校として開校しました。


施設は町の所有で指定管理により谷自治振興会が管理を受託、電気・水道料などの維持費を管理料としてもらい運営をしています。開校以来、自治振興会をはじめ地区内の各種団体のイベント会場や話し合いの場として活用し、名前の通り笑いあふれる楽しい拠点として地区内外から年間4-5千人の方にご来校頂いています。


閉校当時11名だった小学生は現在9名に、中学生2名、高校生5名、1~5歳の未就学児7名の計23名の子どもたちが生活しています。平成21年度から始まった輸送活動や谷笑楽校の活動、スノーレンジャーの活動などが取り上げられ、県内外から視察研修等にも来ていただくようになり、地域としても活気を得たように思います。人口減少の続く谷地域ではありますが、これから次の10年間に向けたプランを作成し、この活力を維持継続できるよう皆さんと頑張っていきたいと思っています。以上、簡単でありますがご紹介とさせていただきます。ありがとうございました。


② 美郷町君谷地区の取組みについて 吉田敦氏

私は10年前に千葉県松戸市から美郷町にUターンしました。私からは、君谷地域の交流センターを通した取り組みを発表したいと思います。


美郷町は島根県のだいたい真ん中にあります。君谷地区は美郷町の北側、旧邑智町の西端に位置しまして、川本町・大田市と隣接しています。君谷地区の人口は現在約330人です。私が住んでいるのは君谷地区の隣の別府地区というところで、昭和の合併の前は同じ君谷村でした。別府地区の人口もだいたい300人くらいです。


君谷村(現在の君谷地区と別府地区)にはもともと3つの小学校がありましたが、昭和44年に、君谷地区の内田小と地頭所小が統合され君谷小となりました。さらに平成16年に小松地小と君谷小、他4校が統合し邑智小になりました。その時の全体の児童数が176名でした。その半年後に美郷町が誕生しました。美郷町は合併前に、小学校を統合したということです。


閉校記念誌から、閉校当時のみんなの思いを拾ってみると、「学校がなくなれば町の明かりがなくなるように寂しくなる」「少子化・過疎化という歴史の流れには逆らえない現実がある」「さみしくはなるけれども現実を受け止めて統合した邑智小を盛り立てていこう」というだいたい3つの気持ちに集約されます。

君谷小学校が複式を取り入れたのは昭和46年のようです。昭和59年から3学級になっています。子どもたちが少なくなっているので統合もやむを得ないという認識があったのだと思います。


君谷小学校の跡地に、君谷交流センターという、役場の出先機関、公民館の役割を果たす建物を、校舎を壊して新しく作りました。平成18年2月に新しい建物ができました。私は交流センターが出来たあたりから地域づくりに関わるようになりました。

君谷地域は、「枦谷(かたらがい)、内田、小林、京覧原(きょうらんばら)、久喜原(くきばら)、地頭所(じとうしょ)、港」の7自治会で構成されています。美郷町は13の連合自治会を地域の核にしていますが、君谷地区はその一つです。高齢化率53.8%というのは町内でも高い方です。地域づくりに関わり始めた当初の印象は、まとまりがない地域ということでした。地域が広大なのです。美郷町内の連合自治会の中でも広い。南北11キロあります。車が離合するのが難しい道が続きます。そして会議がやたらと長かった。話がまとまらずにあちこちにとび世間話もあり、やたらと長い。だから意思統一ができない。そういう地域だったんです。


そんな中、平成23年に地域おこし協力隊を迎え入れました。意思統一ができないし何をやってもらったらいいかがわからないので主体性がない。最初に来た3人は1年足らずで地域を離れてしまいました。しかしすぐにまた新しい隊員が来て、その人たちは頑張ってくれた。草を刈ったり、イベントをやろうと提案してくれたりして、流れが変わってきたんです。小学校がなくなって運動会がなくなった。そこで地域おこし協力隊が、何かやりましょうと言い出した。秋祭りはあったので、収穫祭をやろうという事になりました。これが300名以上の方が来て大盛況になった。皆さん集まって炊き出しをしたり、一番盛り上がるのは石見神楽ですね。美郷町には都神楽、千原神楽という力のある神楽があります。君谷も神楽団が復活しました。収穫祭の活気を見て、地域の人が「ここの地域も捨てたものではない」と思い始めたんです。


ちょうど、町が養蜂業を町の産業として押し出そうとしたところでした。休耕田対策として、休耕田の草を刈って花を植えて蜜蜂を育てよう、地域の方と協力隊でやってみよう、ということで、平成27年位からスタートしました。休耕田を利用してひまわりをうえたり、一部にはレンゲを植えたり、そこに蜜蜂がきます。そうすると波及効果があります。ハンドクリームを蜜ろうで作る事が出来ます。公民館事業にしていただいて、老人会の方が一緒になってやってくれました。子ども達と巣箱のお絵かき大会をしました。巣箱は、そのままだとミツバチが間違えるらしいんです。絵を書いた方がハチも自分の巣が区別がつくというので、巣箱にお絵かきをしたのです。こうして、学校は無くなったけれど公民館にお年寄りや子供たちが集まるようになりました。美郷町観光協会と連携して体験プログラムとして蜜絞り体験もしました。広電のバス観光にも来ていただいて30名くらい来られたようです。

ふるまい交流という名前で、老人会と子どもたちの交流を交流センターでやっています。その時にもハチミツや蜜ろうを作ったりハンドクリームを作ったりしています。


平成28年3月から県の事業で自治会輸送を始めました。隣の別府地区では平成22年からデマンド輸送をしていて、いまではNPO別府安心ネットというところが福祉有償運送と過疎地有償運送をしています。


ご清聴ありがとうございました。


③ 質疑応答

Q:君谷地区では、ふるまい交流会で小学生が参加しているという事ですが、君谷地区の小学生でしょうか?統合した他の地区の小学生もきているのでしょうか?

A(吉田さん):ふるまい交流会の参加者は君谷地区の小学生で15-16名くらいです。巣箱のお絵かきなどは、よその地区の子も来られたりしています。


Q:君谷地区で蜜蜂に取り組んだのはなぜなのでしょうか?

A(吉田さん):美郷町は製造業がなく産業が少ないため、町が養蜂業を産業として作っていこうとしていたのです。町がどこかやらないかと問いかけた時に、秋の収穫祭のあとで気持ちが高揚している時だったので、じゃぁやってみようよ、となったようです。


Q:谷地区は人口の割に各種団体がたくさんあるようです。私の地区はもっと人口が多いですがこんなに団体がないです。この人口でこのような数の団体をどうやって運営しているのでしょうか?

A(澤田さん):人口は約200人です。各種団体は公民館や老人クラブは全地区民を対象とする団体ですが、それ以外は別個にできた趣味の会などです。若い奥様方の会等もあり、それぞれ自分たちの意思で作られておりまして、中にはメンバーが重なっていてあれもこれも出ている人もいます。自治振興会のような組織は、色々な団体を包括して作るという事をするところもありますが、谷地区では自主的に活動して頂こうという事やっています。それぞれ自主財源を持ってやっています。小さなイベントから大きなイベントまでそれぞれで考えられてやっています。


Q:小学校が閉校になってから、谷地区内のPTAはどういう関わりをされていますか?

A(澤田さん):閉校後は、谷地区だけの保護者の組織はありませんが、谷公民館の中でそれぞれ役について色々な活動に参加して頂いています。公民館の中で小学校から高校まで保護者の方に集まって頂いて、色んな情報の共有をしたり困りごとを聞いたりする機会を作るなどして活動を進めています。小学校の閉校につきましては、ずいぶん前ですが私の子どもが通っていた当時の同級生が2人でした。このままでいいのだろうかという不安はすごくありました。統合についていろんな話をしたことがあります。子どもを小学校に預けている身で、小学校を廃校にしようかという話をするのはすごくやりにくいことでした。先生方・PTAの中でこの学校をどう盛り上げていこうか、子どもたちが勉強しやすいようにしようか考えている、その傍らで統合しようという話にはなかなかなりにくいです。次小学校に入る世代の保護者、地域の方も含めて、少しずつ考えていかないとならない。現在小学校に出している保護者さんを対象にして話をしていくと、実際どうするかという議論はやりにくいという状況がありまして、それ以降、話はしなくなりました。行政の方から統合しようという話はほとんどなく合併まで来たという感じです。小学校が地域にある意味というのは、いまでこそ地域が廃れるとか人口が少なくなっていくという話をします。当時から地域に残る子を育てていこうという話はありましたが、残していかなければ次の時代を担っていく人がいなくなるという事は、廃校になっていま、身に染みてわかってきた。地域によってはほとんど子どもがいない地域もあります。地域にとっても町にとっても、地域に残る子どもを育てていかないと地域は必ず無くなるということを大前提にして、備えをそれぞれが持っていない。そうしないと地域は間違いなく廃れる。これからの地域の教育は子どもをいかに残していくか、ということが大事で、それを考えていかないと地域はなくなってしまう。それを今日はお話しておきたいと思っていました。


Q:谷地区では同窓会、卒業生会を設立されたという話がありました。どの位の人数が集まってどういう事をしていますか?

A(澤田さん):卒業生会は、閉校時に作りました。閉校式の記念パーティで披露して発足しました。毎年同窓会を開いていました。参加者は、最初は90人位でしたが徐々に減って4年目には60人位になりました。半数以上は地区外からの参加者でした。郵便の発送数は当時700以上ありました。集まった人数で資金を集めて案内を出すというのがやりにくくなり、現在は開催を2年に1回にしております。近年は64-65名の方に集まって頂いています。昨年は案内に合わせて地域の特産品を買ってもらおうと、神楽のDVDや農産物、寄付のお願いもして、たくさんの方にご協力を頂き、捨てたものではないとの思いを持ちました。巣立っていった人たちにとって、地域は懐かしいという人が多いですが、思い出したくもないという人も数%もいます。逆に、励ましの言葉を頂く人も多く、会を作ってよかったと思います。色んな形で地域の情報を発信しながら協力して頂く。そして帰ってきていただきたい。子どもでも孫でもいいので帰ってきていただきたいという事で続けています。


Q:谷地区の飯南神楽同好会の発足、構成、同好会の地域に与える影響などを教えてください。

A(澤田さん):神楽団は閉校した年の平成17年にできました。10年たって飯南神楽団となりました。地域に保育所があった時代に子ども神楽がスタートしました。子ども時代にずっと神楽をやっていたメンバーが地域に帰ってきて、「また神楽をやりたい」となって同好会がスタートしました。森島建設の神楽団というのが一時期活動していたのですが、高齢化で休んでいましたので、その衣装を借り受けてスタートしました。10年間頑張ってやってくる中で、高校生なども加わり、舞も上手くなり色んな所から声をかけて頂いて公演するようになっています。学校を改修するにあたって、「地域の文化、神楽やお祭りの時の楽打ち(がくうち)を活用して交流していこう」という目的がありましたので、神楽団が出来た意義はとても大きいです。視察も来られます。神楽体験教室という形で大学生も来て一緒に練習したり衣装を身に付けてみたり、ということもしています。谷地区だけではなく飯南町の若い人たちが集まっています。情報発信するのにも助かっていますし、彼らにとっても一つの自信になっていると思います。町にも備品を買って頂くなど協力してもらっています。先般高校生を中心に神楽甲子園というのがありまして、そこでも公演し好評を頂いたと聞いています。神楽のために地域に帰ってきて盛り上げてくれるというのを期待しています。


Q:君谷地区の印象として、まとまりがない、意思統一が出来ていないという印象を持っていたということですが、今現在もそういう印象でしょうか?まとまりがないのは、小学校が統合になると時、ごたごたがあったりしたというのもあるでしょうか?

A(吉田さん):「まとまりがない」というのは私の印象ですが、交流センター長にも今日の資料を事前に見せて何も言われなかったので、まあそれほど違ってはいないと思います。2代目の協力隊員から、「各自治会の旗を作って、それを統一したような君谷のシンボルの旗を作ろう」という提案がありました。その理由が「まとまりがないから」ということでした。しかしその後、協力隊の活動を通じて花と蜜蜂の里づくりという活動が始まり、変わってきました。先日も会議がありましたが、議題は多かったですがさっさと進められて2時間で終わりました。まとまりがなかった時代は、会議が7時半から11時までかかったことがあります。君の谷収穫祭には全地区から住民がでられますので、これが一番の接着剤になっているかなと思います。


Q:廃校の前後でUIターンされる方の数や雰囲気は変わりましたか?

A(澤田さん):谷地区では廃校して以後5年位で17名Uターンがいました。Iターンは1組5名と、単身者1名です。ほとんどがUターンです。地域を守る教育が行き届いていた時代の人が帰ってきている印象があります。

A(吉田さん):隣の別府地区では若者定住住宅が20年前にできているのですがそこは子どもさんが多くて高齢化率が下がって38%位です。


Q:平成10年代は小学校で総合学習が提案されて子どもたちが地域に出向いていく機会がたくさんありました。合併して、小学校が地域から遠くなり、子どもたちと地域の人との交流はどうなったでしょうか?合併した新しい学校の近くの住民の方には生徒と出会う機会は増えて、廃校になった地域の方々はイベント時くらいしか子どもたちと触れ合ったり地域の良さを伝えたりといった機会がなくなってきたのでしょうか?また、学校が終わってからとか長期の休みの時とかに子どもたちを預かる学童は、統合後は統合した学校の近くにまとまってできているのか、各々の地域に帰っているのでしょうか?

A(澤田さん):谷地区の場合は、統合前は地域とかかわりの深い活動が行われていました。地域の資源を探って劇として発表するなど、密接なかかわりを持った教育がされていたと思います。先生も保護者も深い付き合いがされていたと思います。よそから来た先生の得意なことを地域に受け入れていろんなことを進めていきました。統合して子どもたちはスクールバスで通うようになりました。子どもたちは大きくなってくるとスポーツ少年代に入るようになり地域とのかかわりが少なくなってきていると思います。学校としても地域とのかかわりをするために学校の近くに水田を借りるといったいうことはありますが、谷地区での子どもとのかかわりはイベント時くらいしかないのかなと思います。小学生は普段はほとんど見かけないという状況です。学童は、ほとんどがスクールバスで帰ります。近くの人は学童にあずける人もいますが、ほとんどは学校が終わるとスクールバスで帰って、おじいさん・おばあさんが面倒をみるという形だと思います。

A(吉田さん):総合学習やふるさと学習をしていますが、別府地域では、石見銀山からの街道「銀山街道」を歩いて学習したりしています。君谷地域では、竹馬・竹トンボをつくったりしていたようですが、最近は、蜜蜂の関係の出張授業をしたりしています。邑智小から内田集会所に来て蜜蜂の学習をしています。学童保育に関しては、邑智小の近くの「みさと館」で放課後児童クラブをしているだけです。他の地区、比之宮地域では、交流センターにいったん帰らせて学習活動をさせてから帰っていくというのをしていたこともあったと聞いています。君谷地域には平成28年まで保育所がありましたが、これも廃園になりました。日頃子どもの声が聞こえないようになっています。

 
 
 

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