【イベント記録】第6回奥出雲の教育を考える会「奥出雲の教育のこれから」2019年12月3日
- 奥出雲あすなろ教育の会
- 2020年1月29日
- 読了時間: 16分
第6回の「奥出雲の教育を考える会」は、前回の「奥出雲の教育のいま」を受けて「奥出雲の教育のこれから」をテーマに開催しました。
まず、 しあわせな おかあさん塾 塾長 で、志満健総合教育審議会委員も務めておられる 青山節美さんから、話題提供を頂きました。
そして後半は、「これからの奥出雲の教育がどうなってほしい?どうしたい?」をテーマに意見交換を行いました。最後に、各班で出た意見を発表。「 自分らしく生きる事、チャレンジをしていくこと、自分の意見を言えるということが大事。子どもたちに臨むのは、そういう子になった結果、最終的にには幸せになってほしい」「 自分で考えたり主張できる子になって欲しい。優しい子どもになって欲しい。色んなものを許せる子供に育ってほしい。色んなことにチャレンジしてほしい。失敗してもあきらめない。そんな中からチャレンジ精神を育んでほしい。それで、社会・大人が子どもたちには、子どもを見張るのではなく見守っる社会であってほしい。 」など、とても有意義な意見交換の時間になりました。

以下に、ご講演の詳細を記録します。
青山節美さん 講話概要
〇 コドモの異変・オトナの異変
(配布資料から)
【コドモの異変】
・学習コントロールができない
・経験が圧倒的に不足している
・考えない
・選択できない
・知識と経験の連動ができない
・正しい答えをいわなければならない
【オトナの異変】
・その年齢に達したら自然にできると思いこんでいる
・早く教えたらいいと思っている(早期教育)
・効率の良い学びを与えようとしている
・大人の都合のいい答えを求めがち
・幼児期と児童期の落差を埋めていない
全般的に見て、子どもも大人も考えないようになっています。考えることが欠如しています。これは突然ではなく、だんだんとそういう風に育てられてきているはずなのです。1歳・2歳の子どもがイヤイヤするのは、自分でやりたいという気持ちの表れです。子どもが牛乳を注ごうとしていたらどうしますか?止めますよね。こぼしたら拭かなくちゃいけない。雑巾は臭くなる。大人は先を読んでしまうから止めるんです。そして失敗することを奪ってしまう。そんなことがいろんな場所で積み重なってしまう。どんどんどんどん、心配という暴力で、つぶしていってしまおうとしている状況が生まれています。次第に、意見を言わない方がいいとか、何も言わない方が丸く収まるとか、何も言わない方がいい、という判断をするようになってしまうのです。
「コドモの異変」の一つに、「知識と経験の連動ができない」という事を挙げています。中学生の勉強は、ここ、知識と経験の連動なんですが、これができない。考えられないんです。そして正しい答えを言わなければならないと思っているので黙り込む。手を挙げない。
「オトナに都合のいい答えを子どもに求めがち」とあります。好きなことをしていいよといいながら、好きなことをしたら怒る。その中にテレビをみたりゲームをしたりするのも含まれているにも関わらず、です。自分が願う“好きな時間の過ごし方”を押し付けているのです。私たちが子どもの頃は、叱られもしたし、怒られたり放ったらかされたりしたけれども、自主性を押さえつけられるような、正しさを押し付けられた経験も少ないんです。叱られはするけれど自由。遊びもいっぱいする。奥出雲はわかりませんが、松江では、外で遊んでいても叱られるし家で遊んでいても「なんで家にいるんだ」と叱られる。叱られる時には正しさを求めてこっぴどく叱られる。子どもたちが自分で考えていろいろしても、どうせ怒られるからやらない方がましだと考える。大人が都合のいい答えを押し付けるから、大人に都合のいい答えを出せない自分はダメだ、となります。自己肯定感も低くなります。自己肯定感というのは結局やる気の元で、学習意欲にもつながっていきます。自己肯定感というのは本当にネックです。大人も自己肯定感が低い。低くていいんです。低かったり高かったりを繰り返しながら学んだりしようとするわけです。そういうものだと思えばいいのです。自己肯定感が低くてもそれをプラスにとらえて、できないからダメではなく、できないからがんばろうというふうにひっくりかえす関わりをしてあげればいいわけです。自己肯定感はブームだと思います。自己肯定感は社会全体で低いので。うまくいけば高くなるし、うまくいかなければ低くなる。子どもはできないことばかりが目に入ってしまいます。ダメな部分だけがクローズアップされるといい効果は出ないと思います。
私の所に相談に来られる人は、1歳半を過ぎると子どもが言う事を聞かなくなったとか、大泣きをするとかいうことで来られます。これは成長の過程で当然のことなのですが、大人がコントロールしようとするから悩むのです。大人が悩みを作り出しているのです。
〇 教育が変わっていく
教育は変わります。意見を言う事をガンガン練習していきます。大人だけ取り残されます。昭和の教育を受けた子どもと、平成の教育を受けた子ども、令和の教育を受けた子ども。価値観・経験の差が出てくると思います。新しい教育の価値観で育てられる子どもたちを、昭和の価値観で育てられた私たちが、私たちの価値観でやってしまうと、つぶしてしまうことになるわけです。スマホにガラケーの機能を入れようとしているようなものです。私たちも変わらなければいけない。世の中が変わってきているのに、気づかずに、昔の感覚のまま育ててしまった。子どもたちは自分の意見を言って自分で考えて自分で行動しましょうと言われているにもかかわらず、古い価値観のままの感覚で育ててしまうと、子どもたちはどう適応していくでしょうか。昭和の価値観で子どもたちを見ると子どもたちの能力を摘むことになってしまいます。私たち大人も、新しい教育を考えていかなければならないし、自分達も子どもたちと一緒に学ぶというスタンスでないと大変かなと思います。
〇 これからの子どもに求められる力
(配布資料から)
①基礎力
―知ること
・基礎的な学力
・知識・技能の習得
②思考力
-考える事
・基本は基礎的な学力
・情報編集能力
・何を知っていて何ができるのか
・判断力・表現力・活用力
③表現力
-伝え合うこと
・身近な人間関係の中で人と関わったり、問題解決したりできる「主体性」「コミュニケーション能力」を惜しみなく発揮する力
「基礎力・思考力・表現力」これが今の教育の3大テーマです。基礎力は思考したり判断したりする基礎の力なので絶対に必要です。言葉がなければ考えられない。子どもが考えることと、大人の考えることの圧倒的な違いは、語彙力と、その他体験・知識などによるわけです。
知識を持ちながら、課題を見つけて、問いにして、解いていくのが学力だといわれています。問を見つける。AIが出来ないのはここです。目の前に起きたことを問題だと思って、解決したほうがいいよね、とわかるのは人間しかないそうです。今の所、人間とAIの差はそこなのです。そのうち追いつくかもしれませんが。
島根県はこれに加えて学力という事もすごく言っています。島根県の順位は下から数えたほうが早いですが、ほとんど0コンマいくつという差なんです。そんなにしまねだけが悪いわけではなく団子状態なんです。それをどうにかしようとしているようです。その結果、小学校の行事がなくなったり、子どもたちの過剰な学習の方法が行われていたりしていて、違うのではと思いますが、行政としては順位がつくとどうにかしなければとなってしまうんですね。順位が高い所は出題傾向に慣れている、テスト慣れしているんです。福井県は特にそうです。島根県はそういうことをしていないんですね。そういう裏話はありますが、ランクがあると焦ってしまうんにです。島根県はそんなに悪いわけではないと思います。
〇島根の教育の特徴
ふるさと教育は島根にしかないんですよ。島根独自の教育です。
島根の教育は、社会教育は最先端です。特別支援系は遅れています。鳥取は進んでいます。フリースクールの支援もいっぱいある。学校に行けない子供の支援に本気で取り組む必要がある。学校に関してはまだまだ改革が必要な部分があると思います。
〇 安心して失敗できる社会にしよう
自己判断が出来る人になるというのは重要です。子どもの判断はあさはかです。経験がないから。中学生の子を地域の人が怒るんです。でも、身体は大きくても心は子どもで、大人並みの判断ができないんです。経験がないから。経験のない子を大人が本気で怒るんです。がみがみとみっともないと思います。こどもたちにたくさん失敗させてあげて体験を積ませてあげているんだ、大人だから、という育て方がいいと思います。安心して失敗できる地域を作っていくといいと思います。でも、今の子どもは少々の失敗もしんどいくらいに育てられているんです。ちょっとの失敗でもがみがみ怒られて育てられると、最初からお手上げで何も考えない、「どうせ叱られるし、ちょっとやる気出してやっても大人が言ったとおりにできない自分はダメだ」となってしまう。いまの中学生・高校生は最初からチャレンジする子が少ない。大人は口ではいうんです。「失敗していいからやってごらん」と。でも失敗したときにめちゃくちゃ怒るんですね。そうするとさっき言った感じになるんです。安心・安全に失敗することをたくさんさせたほうがいい人に育つと思います。成功する方法が身につくし失敗したらどう回復するかが身につく。失敗した子は、こうやったら失敗する、ということと、こうやったら成功する、ということの2種類の事を経験できます。最初から成功した子は1種類しか知らないんです。2種類知っていたほうが圧倒的に知識も経験も多いんです。そこに大人が気づいてあげると、安心して失敗できて安心して成功出来て、さらに伸びていけるんです。これが日本に今必要です。日本はすごく失敗に厳しいです。失敗したら、「失敗したね」といってやりなおさせればいい。うまくいかなかったら、うまくいく方法を考える。それが経験になりみんなの財産になるんです。失敗=悪という考えはやめたほうがいいです。
〇 「ほめる」ブームはもうやめよう
ほめる教育・ほめるブームというのがありますがやめてしまえと思っています。不登校気味の子が、学校に来れたら「すごいね」と言われる。先生はほめて自尊感情を、と思ってやっているんですが、子どもはそれにイラっとするそうです。1歳・2歳の子はそこにいるだけで褒められるんです。少し大きくなってくると出来たら褒められるんです。もっと大きくなると褒められなくなる。だから褒めるブームなんです。でも、1歳くらいの子のほめ方で3-4歳の子をほめるとだめなんです。それを知らないのでやたらとほめるんです。子どもたちはどういう褒められ方を望んでいるのかというと、自分が頑張ったことをほめられたいんです。自分がいいと思っていることをほめられたいんです。幼児レベル基準ではなくて、些細なレベルをほめて欲しいんです。褒め方は発達段階で違います。確実に違います。小学校高学年になると努力したことをほめるのがいいのです。中学生の時にはセンスをほめるのがいいのです。ただ浅智恵で「すごいねー」と言われると自尊心を傷つけられるのです。褒めるよりもその人自身を認めてあげるのがいいです。
〇 競争と評価
子どもたちは競争が好きなんです。2歳の子でも「集合!」というと、集合するんです。自分が一番に先生の所に行きたいから集合するんです。競争自体は悪くない。競争するから全力で走る。「いつになってもいいから走って来てね」というと意欲がわかないんです。無意識に子どもは競争したいんです。なぜ競争がダメかというと、自分と比較すればいいものを他者と比較して、あいつより遅いから、あの子より点数が低いからダメだ、となるからいけないんです。無意味な評価はダメです。
改革で有名な麹町中学校ではテストをなくしたそうです。テストはなくせばいいと思います。子どもたちを見ていたらどれだけ理解しているかわかるわけです。テストしなければわからないというのは、先生たちにもっと頑張って欲しいですね。
評価が先走ってしまう、そこが親子のトラブルになります。字が汚い、テストの点が低いとか・・・。でも字はどうでもいいです。音声でも入力できるんですよ。目的がずれているんです。字を書かせる教育なのか学力をつける教育なのか。見やすいから字を綺麗に書きましょうと言ってしまうのです。時代に大人がついていけていないんです。
〇 子どもを育てるのは誰か
教育は学校だけの話では無いです。子どもの教育は家庭教育が基本です。教育というとどうしても学校教育がメインのように一瞬思ってしまいがちですが、教育の一部なんです。家庭教育や地域の教育(社会教育・生涯教育)です。すべて学校でなんとかしろという風潮があると思います。そこに親の責任はどこまであるでしょうか。やっぱり、家庭教育は基本になります。子どもが最初に教育を受ける場は家庭なんです。
学校でいじめがあると教育委員会が謝罪会見を開きます。でもそれはそもそも親が謝ることで教育委員会が謝ることでしょうか。いじめた本人が悪いにもかかわらず学校が責められて謝罪させられる状況です。親の責任はどうするのだということも考えたほうが良いと思います。学校は何を教えるところかという事です。学校が家庭教育でやるべきことも担って、勉強は塾に行くという状況が松江でもあるんです。私の住んでいる校区ではみな、塾に入っています。学校で授業が成り立たず学力がつかないからです。では学校の役割は何なのでしょうか。学校の本来の目的・役割を皆考えないとならないと思います。家庭でやるべきこと、学校でやってくれること、区別がつかないのであれば、地域・家庭は学校と一緒に責任を取るという形にしていかないとならない。協力し合って育てる。その時に、どう育てるのか、どういう人を育てるのかという事を共通目標にしていく必要があります。
〇 教育の共通目標を持つ
放っておいても体は大きくなりますが、どんな子育てをしていくのか目標・ビジョンがないと育てられません。放っておくだけで子どもを育てると、10年後20年後にどういう大人になるでしょうか。子育ては、子どもを育てるのではなく大人を育てているんです。いまは小さい子供でも10年後20年後には確実に地域を担う大人になります。地域を担う大人をどういう人に育てていくのか。前提が変われば方法が変わります。自分の力で考えて行動できず判断も行動もできず言われたことをやるだけ、あるいは言われたこともできない人に育てるのか。地域を任せられる人に育てるのかでガラッと変わります。これから、判断できる人が求められます。
〇 大人も学ぶ
私たちは高校・大学を卒業したらある程度学ぶことは終わります。でもそれからの人生の方が長いんです。そこから先学ばなかったら終わりです。私も大学を卒業して27-28年。その間何も学ばなかった大人か、地域や子どもたちと一緒に学んできた大人かと考えると、後者の方が明らかにいい地域になると思います。
〇 地域の教育力
安来の広瀬地域は小学校がなくなった地域がいくつかありますが、公民館の活動で、子どもたちがまわると、地域のおじさん・おばさんたちが子どもの声を久しぶりに聞いたと涙を流して喜ぶんです。そうなっていくんです。学校再編はそれが顕著に現れるわけです。子どもをうんと増やしていくことはよほどのことがなければできないわけです。圧倒的に子どもが少ない。そこでどういう風に地域で教育を支えるのか。子どもたちをどういう風に育てていくのか。みなで課題として持っていく方が良いと思います。
コミュニティスクールという制度があります。益田市豊川小学校はコミュニティスクールです。豊川小学校は一時、学校が廃校になるということがほぼ決定していました。そこへ、「つろうて豊川」といって、地域が学校に協力を始めて、学校と地域が連動している仕組みを作りました。コミュニティスクールになると、その学校でどういう人を育てていくのかという事を、地域と学校が一緒に決められます。共同運営できるんです。でも、島根県ではこれにチャレンジするところは少ないです。小規模校・小規模の地域は意識次第でガラッと変わります。
学校は閉鎖的というイメージがあるじゃないですか。最近は「モンスターペアレント」がいなくなったそうです。この言葉が出てから。それまではモンスター地域という感じで、学校に何でもかんでも言ってしまうという雰囲気がありました。それで学校側も地域を入れないようにしてしまう傾向がありました。大阪の池田小事件のあとも、地域を学校に入れないようになりました。でも地域が学校に入るのは悪くないんです。教室を抜け出す子どもがいても、地域の方がいれば声掛けしてくれる。そういう連携の取り方が、学校の負担感を減らすようなことが出来るのではと思います。
雲南市には小中に地域と学校を結ぶコーディネーターがいます。松江市は小学校に地域のボランティアが入るためのコーディネーターがいます。こういう仕組みで、地域が学校に入りやすくなっています。一方、地域が学校に入るという事はクレームも入りやすくなるわけです。それに、自分で仕事をするときを考えても、誰かにお願いするというのはかえって労力がいるじゃないですか。それで、学校は地域にはいってもらうというのを避けがちなのではないかと思います。でも今後これだけ子どもが少なくなって、学校を再編するにしてもしないにしても地域の教育力が課題になると思います。
横田中学校で去年か一昨年に研修に行ったんです。その時に思った印象が、一所懸命にやらない、ということでした。一所懸命にやらないけれどふざけるわけでもない。わらっているのに、注意されてもやらない。注意されたり、ああしろ、こうしろとすごく言われていたりしている人たちで、反抗もできないのだと思います。注意されたらニコニコしたりふざけたりする。ストレスを思春期独特の怒りとか乱暴さで表すのではなく、戦わないんです。そこに違和感がありました。一見いい子なんですが、この子たちはどうしちゃったんだろうと思いました。すごく人の目を気にしているし、出すものが出せない。きゅーっとしている感じがしました。子どもが少なくて、3世代・4世代で住んでいて、町全体が子どもを知っている、それはそれでいいのですが、そして町全体が監視状態になるようなきゅうくつさではなく、ゆるやかな、温かく見守る感じの共通認識でやられるといいのではと思います。
〇子育ての目標
メールマガジンで「子育てに正解はないというけれど正解はあります」ということを発信しました。幸せに育ってほしい、これが正解です。正解はあるわけです。絶対みんな、幸せになって欲しいというのが願いのはずです。その方法はいろいろあるんです。それぞれが思う幸せは違うし、本人が望む幸せと母親がおもう幸せは違い、そこで苦しむのですが、そこで認め合う事が必要になります。
子育てしていると悩んでしまうんです。答えはあるけれど一つではないという事を自覚すると、楽になると思います。
〇学校以外の居場所づくり
子どもたちの世界は、子どもが小さければ小さいほど、自分の周りの数人で世界が回ります。学校に行けば学校がすべてになってしまいます。一歩出れば大きい世界があるのに、数人・数十人の世界がすべてと思うと苦しくなってしまうのです。でも一歩飛び出れば大きい世界が広がっていて、奥出雲、島根県、中国地方、西日本、日本、世界となったときに自分たちはとてもちっぽけだ、という認識も、自死をえらばないことにつながっていくと思います。自死は重い課題ではあります。年間何万人も自死しています。島根県は割りと10万人当たりの自死率が多い方です。なぜ自死するのか、優しい未来が待っていると思えないから。ネガティブなことを見やすいのです。ネガティブが悪いわけではないことを自覚したほうがいいです。ネガティブは原動力です。皆が皆、根拠のないポジティブな社会をよしとするのも生きづらさの原因ではないでしょうか。

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